写真嫌いの私が気づいた、自己肯定感と向き合うということ
自己肯定感がどうのこうの言う以前に劣等感が異常に高いのでまず自分の写真なんてみたくない。
でも避けているつもりが何かの拍子に誰かの写真の後ろに写りこんでいたりする。そんな時にふと気づく今の自分が第三者にどう見えているか。
さらに劣等感のどん底。
これはいくら歳をとっても変わらない。
まあいいでしょう、劣等感と付き合っていきましょう、というのが行きついた境地。
鏡を見ない私が写真に映る自分を見て学んだこと
さて先日、ある知人の写真の後ろで作業をしている自分が写り込んでいる写真を見てあることに気づいた。
姿勢が悪い!
故に爺さんみたい!
常々ボクはこんな悪い姿勢で人様と対峙していたのだろうか。
何と印象の悪いことよ。今更ながら気づく。
誰か言ってよ。もう逆切れ状態。
今まで自分自身を直視するのを避けていたツケがここにきて回ってきたのか。ウォーキングスクールでも通うかしらん。
冗談はさて置き、今どきの若い人は常に自身の写真や動画を撮っている。
これはいいことかもしれない。
常に第三者目線で自分を見ておく。自己陶酔とか自己顕示欲とかそんなんじゃなくただ客観的視線でのチェック機能として。いいことだ。
話題は変わる。
写真が嫌いと言った。
昔より減ったがお葬式の参列はたまにある。その際の遺影について考えることがある。急なことが多いのだろうか、予想したことがないのだろうか、遺影の「質」が悪いことが少なくないことに心を痛めることがある。
葬儀屋の技術の問題ではない。
本人の、あるいは家族の準備の問題だ。
どんな歳でも準備をしておいてもいいだろう。自分のベストと思える写真を用意しておき、周りに伝えておく。あるいは、分かりやすいようメモなりしておく。
劣等感と写真、そして自己肯定感への道
自分は写真嫌いだが遺影に関しては準備をしておこうかと思う。
過去にある方のお葬式に参列した際は、家族の方が描いた亡くなった方の顔の水彩画が遺影の代わりに飾られていた。その家族らしく、その方らしく個性が出ていてとてもいいと思った。
ボクも必ずしも写真でなく画を描いてくださる方がいれば頼んでみたいと思うが生憎絵を描いてくれる方と縁がないので写真になってしまうだろう。
写真準備術、いやイラストでもいいが、ともかく現在辿り着いた境地というのはマインドのことだ。自己肯定感を持って自己と向き合っていこう、と。
この話題も何回目かもしれない。w
ボケも来た。w
次は断捨離の話題。
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