「積読」も時としていいこともある。
積読とは、読みたいと本を買っておきながら、家の本棚に積んだままになった状態をいう。
この「白の闇」は、コロナ禍が始まり外出自粛を皆がし始めた頃の書店の特設コーナーで見かけ購入、そのまま家で積読となった本であった。
確か書店のポップ曰く、流行病が流行りそうになっている昨今、それを予測したかのような小説がある!ってな感じだったと思う。
多分、コロナ禍の真っ最中に読んだら、流行病の観点に多く着目し、小説全体の素晴らしさに気づくことは少なかったかもしれない。自分の場合。
だからこそ今回、積読で読む時期をずらし、一つの小説として読めたのが良かった。
さて、ジョゼ・サラマーゴさん。
この本以前にこの方の別の作品を読んでいた。「象の旅」である。実話に基づいた話から壮大な象と象使いの旅の話でユーモアに溢れ、あったこともない主人公に愛着を抱いたのを覚えている。文章的には読みづらい。でも、それってある意味リアリティを増している。会話文などでは特に。
「象の旅」を読んだことを気付いたのは「白の闇」の読後だ。
書店のポップ的な簡単な小説ではないと気づき、読後シッカリ調べようと思っていた。(記憶力の低下が激しい)
「白の闇」の深い世界観。
突っ込みどころは沢山あったところで、そこは作者が創った作品の世界観での設定での話。まずは作者の世界観の設定に従いましょう。
この世界では絶望から始まり、底まで落とされ、階段を一段ずつ上がるように少しずつ美しい瞬間を見せてくれる。全くの「闇」の世界なら誰がこの物語を語ってくれるのだろうか。美しい瞬間「も」あるという語り手がこの物語には必要なのだ。全員にではないが希望「も」あるよと語る語り手が必要なのだ。
小説なので、匂い、や触感もないが、匂いについては、繰り返し言葉を変えることで否が応でも嗅ぎたくもない匂いがしてくる。また、見たくもない光景も見えてくるのはこの作家ならでは。
ひいては、だからこそノーベル賞作家なんでしょうね。
「見る」とは「目」でなく「脳」で見るもの。
その根本概念を人々はそもそも理解していない、もしくは誤解している。最終的にこの物語はハッピーエンディングなのだろうか。続編があるそうなので、病気的には終わったのかもしれないが、人間の根本的な問題解決は残ったままのようである。
人間としての尊厳を底まで落とされ、そこから思考し直す作業が視力を失った全員に課せられるが、善意に向かうもの、悪行に向かうもの、それぞれの人の生き方、哲学にかかる。命を懸けて自分の尊厳を守ろうとし行動するのか、どうするのか。それは究極の場に置かれた者にしか分からない。
長編小説とはいえ、それほど長いとは言えないながら印象に残る名シーンがいくつもある。最初の感染者からの派生から罹患が広まるところ。病棟での最初の犠牲者から様々な参事。病棟から逃げるシーン。街での食料確保問題。バルコニーでのシャワーシーン。教会。その合間合間の人々の交流。
謎も多すぎる。
追求しない謎も多すぎる。
読む我々にも「目」でモノを読もうとしすぎていると示唆しているのだろうか。
時にこのレベルの本を読む必要があるなとつくづく考えさせられた。
楽な読書ばかりしてたらダメだね。
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