現実と妄想の合間を行き来しながら、未来を考える。

「正人」の日記

先日映画で「ジョン・ウィック chapter4」を見た。その感想も書いた。
そして、ガザ地区からかつてない「テロ攻撃」がイスラエルに行われて一週間の今、イスラエルからの地上攻撃が行われようとしている。

何故この二つを一緒に書いたか。

我々は常にジョン・ウィック側の視点で物事を見ていることに喚起を促したいのだ。
ジョンウィックは、いかなる理由があれど暗殺者だ。
相手も殺される正当な理由がある人はあるだろうが、全員だろうか。
だけど、誰もジョン・ウィックを批判する立場には立たない。
そりゃそ~だ。
キアヌが主演の映画だもん。
でも、彼の殺し方は容赦ない。愛する犬を殺された報復の殺され方ではない。時には、止めを刺され、時には斧で頭を勝ち割られる。その方の家族が遺体を見たらどう思うだろうか。
どうも思わない。映画だから。

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身近なモノも武器に

いや、ジョン・ウィックの話をしたいわけではない。
どちら側の視点でモノを見るかの話だ。
今テレビ、マスコミがハマスが人質を誘拐し、人壁にしようとしていて残虐だという報道の以前に、イスラエルがそれまでにミサイル攻撃でガザの一般の人々を殺し続けてきて、ミサイルによって殺された一般人の遺体、子ども、赤ちゃん、を見せられたことがあったのか?ということを言いたいのだ。
その過去のイスラエルの行為無しに、現在のハマスの人質行為だけを見て人道的に酷いと一方的に言うのは知識が偏り過ぎているし、感情的すぎると思うのだ。

どちらにも必ず主張があり、歴史があり、今までの過程があってのことなので、簡単に首を突っ込めないにしても、だからと言って声が大きい一方側になびくのも如何なものか。昭和の政治みたい。

映画は娯楽なので、リクライニングシートでエンディングを待っていればいいが、現実はそうはいかない。答えのない、すぐには解決できない問題なのだ。
用意されたエンディングはない。
他国のことであっても注視しておかなければならない。
無関心は、悪だ
偏った知識は、一方を苦しめる。
声が大きい一方にだけなびくべきではない。

先日もイスラエルの大使があるテレビ局にイスラエルに対し思わしくない見解を示すコメンテイターを起用したことで激怒していたようだが、そもそもマスコミなんだから言論の自由があるはずなのに激怒しながら批判するのはオカシイ。
この態度にかなりの違和感を自分は感じた。
自由で公平に何事も行っていれば何を言われても感情的ならず冷静にに言い返せるはずなのに、大使たる人が人を集めた前で感情的になるなんて何かのパフォーマンスにしか見えない。

ということで、イスラエルの一般の人も過去に関わりのあった人達の安否も心配だし、ガザの立場の弱い方々はなお心配。注意深くウォッチしていきたい。

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