前々から観たかった「落下の解剖学」をようやく見ることができた。
オモシロかった。
観る人によって解釈が異なる映画であろう。
感想を言えば、観る人の経験値を見ることができるというか、「映画」を観るだけに留まらない範疇にまで観る人の本性を試されるある意味怖い映画だと思う。
以下ネタバレあり。
事故か、
自殺か、
殺人か、
との選択肢ではなく、起こってしまったことに対する事象にどう向き合うのか、が最重要で、次にどうしてそれが起こってしまったのか、を知ることが大事なこと。
将来のために再発防止のため。生き残っている人のため。
確かに事実を知ることはとても大事だ。
だが、そもそも事実とは何だろうか。
「本当にあった事柄」を証明するための裁判で歳月をかけて議論を重ね裁決した結果で最終的に「無罪」の意味は婦人が「殺していない」の意味であって、旦那が「殺されていない」を証明はしていないが、もうこうなると言葉遊びになってしまっている。
言いたいのは、旦那には打撲跡があったはずだがそれについては、結論は出ていないはず。議論の中で殴打姿勢が無理であった云々については納得できるが、打撲跡がなぜついたかについては最終的に事実が明らかにされていないままだ。
評決によって、どちらの意見を取るかで最終的にとっただけであって、それが事実かどうかは神様が知るのみ。
一方、死の間際に旦那が残したUSBも厭らしく怪しい。子どもの事故後に歪んだであろう性格が反映されている。
USBに残すのは、相手の性格を知って相手を煽ればどのように激昂するか、USBに残しておけば友人の編集者にも自然な形で送り、第三者として証言してもらえる可能性が出る。
この喧嘩から想像できるのは同じ展開が山荘で起きれば、同じ様に相手に激高させて、喧嘩をしかけさせ、殴打までしかけ(たとして)、散歩から帰ってくる息子を目撃者に仕立て自殺するという筋書きも可能だ。
女性は、初め自制心が強い。しかし、アルコールが入るとやがて煽られることで自制心の堰を切り一気に過剰な暴力性が表に出る。
このことを承知でインタビューの合間に大音量で音楽をかけ彼女の心のバランスを欠くことも可能だし、夫婦の口喧嘩が始まると犬との散歩に出掛けるルーティンができているなら、それをも計算済みかもしれない。
ところが、最初に書いたように現実は「本当の事実を知る」ことより、起こってしまった事象に対しどうその後向き合って生きていくかが人間にとって大事な作業となる。
現実は残酷なのだ。
子どもも何度も大人から試される。これは映画でなくとも実際の裁判でもそうだろう。この映画ではワンコも試される。ワンコに演技賞を!
人は見たモノは確かというが、脳は錯覚ということを起こすこともままある。聴くことに関しもそうだろう。
「見たから間違いない!」と断言する人ほど怪しい人はいないと思えるようになった昨今、子どもの彼が追及されるのが可愛そうでならなかった。勘違い、記憶違いは誰にでもあるものなのだ。
子どもなりに時間をかけて、
真実と現実と将来と、それでも愛する母親を、全ての総和的な彼の判断が彼の最終弁論だった、とボクは思う。
悪いことは悪い!
罪は絶対許せない!
と思う人には以下のようなルポタージュも読んでいただきたい。
不条理な現実は日本にもある。
子ども達は、子ども達なりに選択せざるを得ないのだ。
「殺人者はそこにいる―逃げ切れない狂気、非情の13事件」
実際の事件に自分が渦中に入れば、そんな悠長なことは言ってられないと思うが、いつ人はそんな事件事故の当事者になるかもしれない。
人生は綱渡りなのだ。
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