映画自評:「哀れなるものたち」の原題「Poor Things」の「Things」への想い。

「正人」の日記

エマ・ストーンさんは相当な野心家だとこの映画を拝見して思った。
なぜなら製作での金銭面でかなり深く入り込んでいるばかりでなく、俳優のキャスティングや脚本にまで立ち入っているというではないかい。
名声は既に手に入れている。
お金ももちろん。
彼女が必要としているのは、映画芸術での満足や世間に対する主張なのだろう。

世間のちょっとした不理解や偏見なぞ怖くもなんともない強い意志。
一緒に仕事ができる能力がある素晴らしいと思えるスタッフとの作品制作が人生での優先順位が今一番高いのだろう。
制作の中で彼女が製作スタッフと語り合った夢が実現化していくのを現場で目の当たりにしていくのは当事者としても満足度は高かったに違いない。
以下ネタバレを含む。


舞台設定(場所)、音楽、衣装、それぞれのシーン、配役、季節、全てにおいて意味を込めてくつられているだろうことは容易に想像できる。
「正解」が何かなんてそんな芸術にとって一番不似合いなことはしたくない。また、自分にとって琴線に触れるものが何よりも聴者にとって大事なものだと思う。
ボクは映像の画角と音楽がこれほど映画全体に対し主張している映画を観たことがない。逆を言えばやりすぎだ。でもこの映画に関しては調和を得ている。

主人公のキャラクター設定についてだが、身体が成熟したまま頭脳が0から成長する実験を実は彼女以外にも試している様子。但し、成功できているのは彼女だけのよう。その成功要因となっているのは彼女の持ち味。彼女の性格故なのか。
好奇心、強い意志、冒険心、自発的な研究心。マイナスだけに偏らないむしろプラス思考性。そういった彼女の持ち味が実験の結果、成功例を導き出しているようだ。

彼女の容姿はフリーダカーロに寄せているように思うのは考えすぎだろうか。太すぎる眉毛、強い意志を感じる目。横顔写真でも歯を噛みしめて額に歯を噛みしめている様子が浮き彫りになっている。静かに歯を食いしばるとできる隆起だ。強い意志の表れでもある。

映画の原題は「Poor Things」。原題がそもそもThingsにしたのは、「人」だけじゃない「動物」などを含めて命あるものに対して名付けられたのかなと。
原作を読んでないので何とも言えないが…。
親から実験台にされた博士。他の生物と合体された生き物。
無知と無知と知らない世間知らずと。
下層の民と交わらない大金持ちと。

映画の視点は、大金持ち側の世界からで常に見ている。
売春宿だってそうだ。
客は大金持ちじゃなくとも、固定客になれるほどのお客層だ。映画を観る側の層を想定しているのか…。仮に大金持ちでなくとも、映画館に行って映画を観ることのできて食事できる。タルトの食べ方を試したくなり、実際お金を払ってできそうな層の客層。
なぜボクがそこにこだわるかと言えば「Poor Things」と語り掛けたくなる多くの層が大金持ちからタルトの食べ方を試したくなる層にいるからからかもしれない。(ややこしい言い方をしたが、つまり上から目線)
船でも上からしか見てないし、
実験動物と親しく触れ合う風でもないし、
メイドはメイドだし、
売春宿だって、結局相手側を「思う」気持ちはない。
欧米風のサッパリしてる?




実験の母体を手に入れるのは自死した(身寄りのない)遺体だ。主人公ほどの精神性を持っている母体を必ずしも手に入れられるとは限らない。主人公の精神性はそれほど実験の成功に寄与していると考えられるのだ。
環境さえ変われば、人は豹変できる。その好事例だろう。
主人公とエマ・ストーンさんは重なる部分が多いと思う。だからこそ彼女は製作にも入り、演技も念入りに行ったのだろう。

売春宿でのシーンは、今回の映画では、主人公が最後に成長する過程を描くにおいて不可欠だっただろうし、あのような描写で良かったと思うが、本来自身が製作に入り権力を持つ立場にいたら、多少は遠慮したかもしれないのに、映画芸術のために身を張っている姿はまさにプロ。大変失礼だが、セクシーでもないプロモーションにしてまでも晒して、表情を作って、体形をつくったり、色んな変態の相手をしたりと、まさにプロ。
でも、あの過程は不可欠だった。

とんでもない人だと思う。

アナタは晒せるか?

まだまだ語りたいことがあるが、まとめきれないので一旦ここまでで話を切り上げよう。

では。



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