独立系書店、という言い方がいいのか、京都の誠光社でのお勧め本であったエドワード・ケアリー「呑み込まれた男」を読んだ。
要はピノキオのお父さんを主体にして巨大魚に呑み込まれたところを小説として書かれた本だ。
独白系回顧小説、とでも言えるのか。
色んな意味でメタファーに富んでいる。小説世界をそのまま間に受けるわけにいかない。そもそもピノキオの話自体が寓話なんだし、ピノキオを生んだ親が彼なんだから物語も示唆に富むのも当たり前と言えよう。
彼が大魚の中にいた期間は2年間だそうだ。思いの外長い。
一人孤独の中、自分の過去を振り返り過ごす2年間。
そこは内であり外でもあり、家でもあり世界でもあった。
彼は生命を産む力を持っていたし、想像の力を持っていたが、その世界では絶対的な孤独であった。
その存在の意味は何?
彼の2年間の生活、彼の人生の物語は詳細に日誌に残されて彼自身は姿は残されず、行方をくらましていたが、本当に彼は存在していたのだろうか。
残された彼の創作物、彼の日誌によって彼を辿ることはできるが、我々は彼自身を目にすることはできない。
我々読者は彼を残された日誌や作品で彼を知るしか方法はないし、2年間の生活を想像するしかない。しかし、彼にとって2年間の闇の中の孤独の生活は紛れもなく真実で、2年間そこが彼にとって「世界」だった。
処女受胎の男性版変異体、とも言える男性父親が子どもの生を産むことの本来してはいけないことへの罰とも思える環境下に置かれ、そこで反省と自戒、でも抑えきれない創造への力との対話で新たな挑戦で開かれる道。
そして、そこには開かれたと同時に終わりを告げる待ちわびていた再会。
彼には、この世での幸せは約束はされていないのか…。
読了後、彼の存在に呑み込まれている自分がいることに気づく。ジュゼッペ老よ、どこへ行った?
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