映画自評:「関心領域」と無関心と行動の狭間で。

「正人」の日記

湯気の立つホカホカの晩ご飯をハフハフ言いながら夕方のニュースを見ている。
ガザに対するアメリカでの学生のデモのニュースだ。ガザでは年端のいかない子どもが餓死させられようとしている。イスラエルはかつてホロコーストで被害者となった国だが今回は積極的に加害者となっている。
その様子をボクはただの傍観者として何の行動もせず見ているだけだ。
ガザへのチッポケな寄付金で偽善的行為をもって満足し自らの罪悪感を誤魔化している。

監督、原作者はこのようなな傍観者の我々の状況を見透かしているようだ。

以下ネタバレを含む。


人の関心や見方がそれぞれあると思うが、ボクがまず最初に感じたのは冒頭に書いたような世界の厳しい側面の現状に対する傍観者としての状況だ。
映画の家族の人たちは、あの時代のかなり立ち入ったポジションにいるが、あの家族が我々であっても状況が変わるとは思われない。
全くすぐ隣で行われている残虐行為でも毎日行われていれば、音だけであれば現場を見ていなければ慣れてしまう(兵士以外の話)。
実際、実家から来た母親は反ユダヤ主義者であったにも関わらず一晩で逃げ出してしまっていた。

妻が得た理想の家族の住む場所は、多くのユダヤ人の犠牲の元にしかなりたたない。彼女は暗にそれに気づきつつ目をつぶっている。
暗に気づきつつとは、ある意味彼女にとっては無意識の行動なのかもしれない。我々もその時代、その場所にあれば同じ価値観で行動したかもしれない。

まず妻を中心に見てみよう。
自分が夢にまで得たものを離しがたいがために手から無慈悲に離れそうになると怒る。
自分が描いた理想の家を離しがたいために夫と別れてでも残る。
塀を見えないようにするために塀をつたう植物を植える。
母親が逃げ出した手紙を焼き捨てる。
逃げ出した母親を知っていることに対し給仕した女中に嫌味を言う。
でも、
恐らく、亡くなったユダヤの人のいい服は躊躇なくもらう。

上手くいっている時には良き母親であり、妻であったが一旦生活にほころびが見え始めると自己中心の人間性が垣間見える。

夫はと言えば、できすぎるビジネスマン。
その時代の要請に応じた仕事を求められたように、トップが求める以上にできる人材。時代の流れには逆らえず、権力に求められた仕事をこなすことで生きる道を確保していく。

夫婦共々、善悪の感情抜きに時代に沿うように生きれば、上手く生き抜ける。

善悪と言う感情を抱えて生きると、何かと不便だ。
今のロシア国民のよう。
今の中国国民のよう。
そして、今の我々のように。

スカパー!基本プラン

そしてまた、善悪のために行動すると何かと不便だ。
見えないことは何かと都合がいい。
聞こえてくることに関しては、聞こえてないフリをすればいい。

この映画は過去の出来事を映画にしているわけだが、現代のわれわれにも十分当てはまる。

映画の最後のシーンが、いきなり現代に繋がっているのはボクにはホロコーストの「精神性」みたいなものは生き続けているというメッセージにも思えた。
国を越え、民族を越えた、普遍的なものであると。
それは、ホロコースト自体を言っているのではなく、ホロコーストに対して「知っていたのに知らなかったフリ」をしていた多くの人達を指す。
つまり、現代で言えば我々みたいなモノのことだ。

いつでもホロコースト的なモノは復活する。
そして、今、実際に復活された。
かつての被害者によって。
それを立場を変えて、塀の「向こう側」と「こちら側」を入れ替えて。
塀の向こうは「ガザ」と言う名になっているが。


追:今回の映画は感想書くには難しく、言葉をまとめることができなかった。言いたかったことが伝わっただろうか。
アウトプットの難しさを改めて感じた次第。



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